「 What's the purpose of your visit?」 「Sight seeing!」
「How long are you going to stay?」 「About three months.」
カタコトではあるが、6年前とは比べ物に成らない位の英語力を身に着けていた私は、トラウマだったあのLAX(ロサンゼルス空港)のイミグレーションも、何のストレスも無く通過した。
私の滞在期間は約3ヵ月。そのうち最初の1週間は大島社長とその秘書のYさん(オーストラリアに留学経験を持ち英語堪能)、そしてシカゴの大学に4年間留学し、その後外資系企業に勤めていた経験のあるC君が、英語力をかわれて同行する事になった。
空港の外に出ると、そこには提携を打診してきた相手先の社長(KENさん)とその奥様が出迎えてくれていた。
KENさんは沖縄出身でこてこての日本人なのだが、さすがに25年もLAで生活していると、どこか雰囲気はアメリカン!と言うか”アメリカに長年住んでいる日本人”と言う匂いをプンプン漂わせていた。。
年齢は40代後半くらいだったと思うが、軽く小麦色に焼けた肌と茶髪、そして、ビジネスで相手企業の社長と合う時にでも、ポロシャツにチノパンと言う基本的にカジュアルな服装が、何よりも”西海岸風”だった。
逆に普段からスーツにネクタイで、所謂日本の企業文化その物の中で働いていた私にとっては、このいい意味で”アメリカン”な感覚は、それだけで私を”ワクワク”させてくれた。。
全員が一通りの”日本風”挨拶を済ませ、いざLAXを出る。毎回思うのだが、あのLAの青空の下へ放たれた瞬間の清々しさは、何度経験しても幸せな気持ちになる。
人生の内、一度は住んでみたい場所である事は間違えない。。
KENさんの車に全員で同乗し、先ず我々は、LA市内にあるいくつかの出店候補地の物件と、同じく市内に点在するKENさん所有の店舗をいくつか周った。
元々KENさんは、LA市内で「Japanese Restaurant YAMATO」を数店舗と、回転寿司の「KURA SUSHI」を1店舗経営していた。ここで言うジャパニーズレストラン(JR)とは、向こうにある”和食”のことだが、LAで言うJRは日本人がイメージするそれとはちょっと違い、SUSHIとTEPPAN(鉄板ステーキ)を販売している店の事を言う。同業種で有名な所では、BENIHANA(ベニハナ)の事は知っている人も多いだろう。各テーブルに鉄板があり、それぞれお客のコースオーダーをシェフが目の前で調理して行くあれである。日本にも同じ様な鉄板ステーキの店は数多くあるが、アメリカのTEPPANの一番の特徴は、そのシェフ達のパフォーマンス付きと言う所だろう。ターナーにナイフ、ミルやペッパー缶を使い、まるでジャグラーの様にテーブルで調理しながらパフォーマンスをする。。実に見事だ。。
我々は昼食時、YAMATOの一つに招待して頂き、私個人的にはそのパフォーマンスを初めて体験した。
「すげぇー!」
「社長、このパフォーマンスは凄いですね!!日本でも同じ様な業態やったら流行るんじゃないですか?!」
あまりの感動に思わず軽口を叩いた私は、こう続けた。。
「元々うちは、寿司は得意分野ですし、店の半分を回転寿司にして、半分をTEPPANテーブルにして、恐らく最初は回転寿司の方が圧倒的に入るでしょうけど、そこに来たお客様が、遠目にTEPPANのパフォーマンスを見て、「向こうは何だろうね?」「何だか楽しそうだね!」「次はあっちに行って見ようか!?」と言う流れで、徐々に浸透して行き、結果最終的にはどちらもいっぱいに成るんじゃないでしょうか!?」
要は、パフォーマンス付きのTEPPANと言う業態は面白い。しかし、まだ日本でなじみの少ないJR(TEPPAN)の浸透剤として、得意分野の回転寿司を利用したらどうか?!と私は考えたのだった。。
「まぁ、面白いかもね。。」大島社長はこう答え、この時のこの会話はこれで終わった..........。
食事を済ませ、また一路物件視察へ。
「次に見る物件が、私が考えている最有力候補です。」 KENさんが言った。
場所は”Studio city”と言って、どちらかと言うとロサンゼルス北部に位置する”Burbank(バーバンク市)”の中にある町の事で、日本人にも馴染みの深い「Universal Studio Hollywood(ユニバーサルスタジオ・ハリウッド)」のすぐ近く。
良くテレビなどに移る「Hollywood」と言う文字の看板が建っている山のちょうど裏側だと思ってもらえば良い。
だけど別に「USH」の近くだからStudio cityと言う訳ではなくて、実はこの町付近には、アメリカ3大ネットワークテレビ局のABC、CBS、NBCを始め、UNIVERSAL TV、SONY PICTURES TV、Warner Bros Entertainment、20th TVなど、アメリカの主要テレビ局が集積している為、こう呼ばれているのである。。まぁ日本で言えば差し詰め”港区”と言った所だろうか。とにかく一等地である事は間違えないらしい。。
だからKENさん曰く、「この町はハリウッドも近く、各テレビ局も近いので、ハリウッドスターを始め業界の人間や著名人。或いはハリウッドやビバリーヒルズ等に住むお金持ちが沢山住んでいる地域なので、そう言った人達が沢山来るように成る事は間違えない!」と言っていた。。(※因みにBurbank&Studio Cityには、日本でも有名なジョージ・クルーニー、ロバート・ブレイク、アリッサ・ミラノ、ヴァン・ヘイレン、ショーン・ペン、ティム・バートンなど、錚々たるメンバーが住んでいる。また、隣町のハリウッドに多数の有名人が住んでいる事は言うまでも無い。)
比較的ミーハーな私は、その言葉を聞いただけでまたワクワクが止まらなくなった。。
物件駐車場に到着し、車を降りたとたんに、大島代表は店舗の方では無く、なんと反対の道路側に、それまでには見た事も無い機敏な動きで足早に歩き始めた。
何かを感じたのだろうか?それとも創業来培ってきた物件開発の血が騒いだのだろうか?しばらく行った所で立ち止り、店舗の外観から周辺環境とのバランス。面している道路の交通量や車の車種(生活水準)などを一瞬にして読み取り、自分の中の「答案用紙」と照らし合わせていた。。(この出来事も私にとって非常に勉強に成った。。)
現地では仲介をしてくれる不動産屋さんと待ち合わせて、鍵を開けて物件の中まで見せてもらった。
広さは約3600sq.ft(スクエアフィート)、日本で言う所の100坪くらいの広さだったと思うが、一部に2階が在る為、延べ床面積では約120坪程はあったと思う。。
「こんな良い場所のこんな良い物件は、これを逃したらしばらく出てこないでしょう!!」
不動産屋さんが言ったこの言葉に対して、LA歴25年のKENさんも、これに深く同意した。。そして建物の中で、KENさんは予め用意していた店舗レイアウトの図面をおもむろに広げ始めた。
「ここからここまでが回転寿司レーン。そしてここからここがTEPPANテーブル。一部ある2階席はVIP Roomにして、業界人を取り込めるようにしたいんです。」
この話を聞いた時、普通なら少し興奮してもおかしく無い程の話だったが、大島社長と私には「なるほど。」と言いながらも、どこか腑に落ちない感情が湧いていた。。
それは、その図面に描かれた”TEPPANテーブル”の存在があったからだ。
そもそも我々は、LAに「回転寿司」を出店する為にはるばるLAまでやって来た。大島社長の目的も、「アメリカに【がってん寿司】を作ろう!」と言う物だった。そして元々のKENさんの話の中にも”TEPPANも一緒に”などとは一度も出ていなかった。ところがいざ蓋を開けて見たら出てきたこの言葉に、我々は幾分かの違和感を覚えずには居られなかったのだ。。
まぁしかし、これも乗りかかった船。まだ一緒に歩き始めようと動き始めたばかりだ。今後の話の中でいくらでも修正する余地はあるのだから、この場でじたばたする必要はない。それに念願だったアメリカ進出が目の前まで来ているのだから、お互いが出来るだけ歩み寄って一番良い所で着地させるのが得策だ。恐らく暗黙の中でこう考えた代表と私は、その場では何も言わずに、とりあえずはこのままの流れに身を任せる事にした。。
その後も、3日間位かけてLA中を走り回り、寿司屋を始めとする様々な町の様々な飲食店、そして物件を嫌と言うほど周った。
そして4日目。3日間で詰めるだけ詰めて、必要な所はほとんど周ってしまった為、なんとここから代表が帰国するあと数日間の予定が無くなってしまった。そこで困った我々は、KENさんに今度は”観光”のコーディネートを頼んだ。
「行きたい所は無いですか?」と尋ねるKENさんに、「どこか行った事が無い所に行ってみたいですね!」 代表が言った。
するとKENさんは少し考えた後に「MEXICOは行った事がありますか?」と訊いてきた。
世界各国を旅した事がある代表も、さすがにメキシコは行った事が無かったらしい。
「イイですね!!僕はまだメキシコ行ったこと無いです。」代表のこの一言で、我々のメキシコ行きは決った。
「パスポートだけは忘れないで下さい!」とKENさんに念を押され、一路メキシコへ。ご存知の通り、メキシコはアメリカ本土と陸続なので、ロサンゼルスからサン・ディエゴを抜け、車で数時間走ったらメキシコとの国境に着いた。
初めての車での国境越え。イミグレーションでたいそうなチェックをされるのかと思いきや、それがまさかのほぼ素通りw「国境を超えるのにこんなに簡単で良いの?」と思うくらいで、例えて言うなら、飲酒運転の検問程度。車から降りる事無く、確かパスポートも見せて無い。「パスポート忘れるなって言ったのに.......。」入国税?か何かを払っておしまいだったので、そう言った意味では”ディズニーランドのパーキングゲート”くらいのイメージだろうか?。それもそのはずで、後から聞いた話だが、なんとメキシコは72時間以内なら出入り自由なのだとか。アメリカ側からイミグレを抜けてメキシコに入国。それはまるで隣の県に行くくらいの感覚だった。
メキシコ側の国境の町は”ティファナ(Tijuana)”という町だった。
LAから車で数時間の場所なのに、その景色は一変し、自分がテレビなどを通じて作り上げたメキシコの勝手なイメージとさほど変わらなかった。
決して近代的とは言えない街並みと、陽気なLatinos達。街を歩いていれば「SHACHO! SHACHO! MIRUDAKE! MIRUDAKE!」と観光客相手の商売人が声をかけてくるw中でも一番衝撃的だったのは、それまでの人生の中で味わったことの無いくらい「まずいトマト」と、記念写真様に繋がれている「シマウマの馬車??」だ。なんとティファナの街を歩いていると、あちらこちらにこの「シマウマの馬車」が現れる。その溶け込み具合にしばらくの間誰も不思議と思わないのだが、ふとした所で、「あれメキシコってシマウマ居たっけ??」と誰かが言い始めた。そこでみんな我に帰り、「そう言えばそうだよね!!」と、そのシマウマをよ~く見てみると、それはなんと、実際には「ロバ」なのだww。ロバの体に白と黒のストライプペイントが施されている。。一同大笑いで、でもそれがどこか”メキシコらしい”とガテンして、逆に「記念だから!」と、そのなんちゃってシマウマの馬車に乗って記念撮影をした(確か$1)。このなんとも言えないバカバカしさと、発展途上国ならではの逞しさが実にイイ感じだった。。
それから私はメキシコにて、生れて初めて「ボーダーライン(国境線)」と言う物を見た。アメリカとメキシコの国境には、高い(3~4m位だったと思う)鉄製の壁が建っているのだが、これが何処まで続いているかと言うと、もちろん陸の上には永遠と続いているが、驚いた事に、海に入るとたった数十メートル程しかその壁が無い。「えっ?これじゃ泳いで簡単に国境を越えられるんじゃないですか?」と私が言うと、「アメリカには、Wet Back(濡れた背中)」と言う差別用語があるんですが、これは、この国境を不法に超えてきたメキシカンの事をそう呼ぶんですよ。」「まぁ泳いででも、フェンスをよじ登ってでも、どちらにしても簡単に国境を越えられますけどねw」とKENさんが笑った。
それもそうだ。いくら高いと言ったって、3~4mのフェンスなんて、ちょっと工夫すればいくらでも超えられる。どちらにしても、アメリカに不法侵入するメキシコ人は後を絶たないらしい。
だけどなぜ不法侵入、不法滞在が後を絶たないかと言うと、ある種アメリカ側がそれを受け入れていると言う事実があるからなのだ。カリフォルニアでは既に潜在人口(不法の為、国勢調査に反映されない人)を含めると、50%以上がメキシカンだと言う。実に人口の半分以上がメキシカン?!ここまで来ると、既にどちらの国か解らない。。アメリカの飲食店をはじめとする事業者は、そのイリーガルなメキシカンを低賃金で雇い、またその彼等はアメリカで経済活動をしていると言う事実がある。だからどちらにしても、アメリカ(カリフォルニア)にとって、イリーガルなメキシカンは切っても切れない存在なのだ。
「百聞は一見に如かず」。世界を知る為には、自分の足で世界へ出向き、自分の目で世界を見る事がとても大切だと、この時私は強く思った。。
数時間ほど滞在し、我々はメキシコを後にする事にした。
ティファナは国境の町の為、少し車で走っただけで直ぐにイミグレーションに着いた。するとそこには、アメリカ側からメキシコに入る時とは全く正反対の光景が目の前に広がっていた。メキシコ側からアメリカに入国する際には、麻薬の密輸入などの問題もある為簡単には入れてもらえないらしい。一台一台の車、一人一人のパスポートをくまなくチェックする為に相当な時間が掛る。7車線(だったと思う)に広がったイミグレーションに、それでも渋滞で数百台停車している。ここを抜ける為には数時間は掛るとの事。そしてここで、改めてメキシコの逞しさを知る事と成る。
イミグレを通過する為に並ぶ数百台の車の側道には露店が建ち並び、それだけならまだしも、渋滞で停車している車道を数十人の人が行き交い、1台1台の車に対して直接、花やお菓子などの思い思いの商売をしている。そしてなにより圧巻だったのが、同じく車道を行き交う「乞食風女性」だ。貧しそうな佇まいに乳飲み子を抱え、もう片方の手には紙コップを持って、ただただ無言で車の横をゆっくりと歩いている。しかも表情はもの悲しそうに.......。普通の日本人ならその姿を見て、窓を開けて紙コップに小銭の一つでも恵んでしまいそうになる。正直私もしそうになった。だがその瞬間、KENさんが「あげちゃダメ!」と声を荒げて言った。ドキっとしたのもつかの間、KENさんはこう続けた。
「あの女の人達が抱えている赤ん坊は”RENTAL”ですよ。」
「???」 私は一瞬意味が解らなかった。。
「こう言う所で物乞いをする人が、少しでも同情を引く為には赤ん坊を連れてた方が効果が高い。だからその演出の為に赤ん坊を誰かから借りてくるんです。」
なんと!?.........。私は「へぇ~」と言う言葉しか、返す言葉が見つからなかった。。
スゴイ。日本人の私には到底想像もつかない。。本当に逞しい。。。世界は広い。。。。人間やる気になれば何でもできる。。。。。そんな事を考えさせられた体験だった。
その後無事にLAへ帰り、翌日はまた陸路でラスベガスへ行ったりと、代表が帰るまでの数日間は、実に有意義な時を過ごし、夢の様な1週間は、あっと言う間に過ぎて行った。。。
【アメリカでの生活】
そしていよいよ、たった3ヶ月だが私のアメリカでの生活が始まった。
勤務する店舗は、オレンジ・カウンティ(通称OC)のCosta Mesa(コスタメサ)と言う町にある、KENさんが所有している(現在は違う)唯一の回転寿司、「KURA SUSHI」。
滞在するアパートもKENさんが所有する物件の1つで、同じくコスタメサにあるゲートコミュニティのアパート。
聞いた話だが、家賃は$1400と言う事だった。当時のレートは約110円程度だったので、日本円にして約15万円程の、2bed,2bath+LDKのとても良いアパートだった。それに、向こうのゲートコミュニティーのアパートには、中央に大体供用のプールや簡易のジム施設が付いていて、実に快適だった。
私はこの部屋を、当時KURA SUSHIでコンサル契約のマネージャーをしていた方(日本人)とルームシェアをして滞在する事になった。
出勤初日。アパートからお店までは、車で大体10分位で着いた。
そこでは約20人位のスタッフ達が働いていた。日本人のマネージャー(オンリージャパニーズ)とサブ・マネージャー(女性、英語堪能)。スシ・シェフは全部で4人で、このうち3人は在米韓国人(英語がネイティヴ、韓国語)、そして一人は元在日朝鮮人(日本語がネイティヴ、英語堪能)。その他板場にはパートタイムのメキシカン(スパニッシュ、英語少々)2人。ホールスタッフは8人中6人が日本人留学生(英語堪能)、残り2人がアメリカ人(もちろんオンリーイングリッシュ)。最後にキッチンには4人のメキシカン(オンリースパニッシュ)。と、実に多彩で国際的な環境だった。そしてこの人種環境が、実にカリフォルニアの縮図なのだ。
移民の国アメリカ。中でもカリフォルニアは移民が多く、当時のデータでは白人系42%、ラテン系37%、アジアン系11%、黒人系7%、混血3%と言う割合(当時の人種割合)で、更にそこから先にも書いた国税調査に反映されないラテン系の人達が加わる。
これが所謂「人種のサラダボール」と形容される由縁で、よく言う「人種の坩堝(るつぼ)」とは本質が異なる。坩堝と言うのはそもそもが物質を混ぜ合わせる為に使う道具で、最終的には”溶け合っている”状態。これとは逆にサラダボールとは色々な種類がごちゃ混ぜには成っているが、決して溶け合っては居ない状態。LAの人達はそれぞれがそれぞれのコミュニティーをもって生活し、職場を始め様々な生活環境の中での交流はあるが、基本的には”同じ土地に住む他の国の人”と言った感じだった。。
私は初日から板場に入り、ほぼ100%外国人のお客様の目の前でいきなり寿司を握らされた。アメリカで寿司を握っている人達は、基本アメリカ国内で先輩たちから教えてもらった技術のため、実は本人たちはそれが本物かどうか自信が無かったりする。だから日本の寿司職人である私が来ると言う事にとても喜んでくれたし、出来れば本場の寿司技術を教わりたいと言うスタンスだった。。
最初は「基本英語の中でちゃんとサービスが出来るのか?」と不安はあったが、いざ始まって見たらこれが案外何とかなる物だった。
「IRASSHAIMASE!!」 これは本来の「いらっしゃいませ!」と言う意味合いよりも、先ずは活気や雰囲気作りのためにこの言葉を使う。
「Hi How are you?!」「How many?」 これは日本で言う所の、「いらっしゃいませ!お客様は何名様ですか?」の部分。
こんな生きた英語を知らなくて、ただただ真面目に英語を使おうとすると、「Wellcome to our Restaurant!」「How many peaple are there in your party?」と成ってしまうだろう。
元々”言葉”と言うのはコミュニケーションツールだから、頭でっかちにやれ文法がどうのとかじゃなくて、一番効率の良い伝え方に成って行く物なのだとこの時思った。そう考えると恐らくどの国の言葉も、一つのコミュニケーションをとる時の単語の数は、理論的には1或いは1以外の最小公約数に落ち着くのだと思う。例えば同じ日本にも、”世界一短い会話”と言われる「東北弁」では、『どうぞ召し上がってください』『はい、頂きますのでお構いなく』と言う会話は⇒『け』『く』とたったこれだけに成ってしまう。その他にも、『どこに行くの?』『お風呂に入りに行ってきます』と言う会話は⇒『どさ』『ゆさ』となる。
とは言え、さすがのアメリカでも接客業の中ではお客様に失礼にあたる言葉は使わないが、そもそもがシンプル&フランク&カジュアル&フレンドリーに会話をする米語の世界では、そのレベルは自分が日本で勉強し、思い描いた勝手なイメージをもはるかに上回った。そしてそれは、実に居心地の良い感覚だった。。
そしてこんなアメリカ文化の中で行う接客業は、店員とお客とのコミュニケーションも基本的にフレンドリー。
例えば1日に何度かは、板場内にビールや日本酒(熱燗)が届けられるのだが、これはお客様からの差し入れで、いっしょに「KANPAI」をしようと言うのである。板場の中に居るSUSHI SHEFF全員に酒が行き渡るのを待ったところで、SHEFFの一人が合図の掛け声をかける。「Let’s KANPAI TIME! 3,2,1 KANPA-I!!」 全員が一気で杯を空けた後、「フォーー!!」と店中が盛り上がるといった具合。
この瞬間は、いくら注文が入っていても我々は仕事の手を止めて対応し、その事を他のお客様は何とも思わ無いし、むしろ一緒に盛りあがってしまう。。実に楽しい。。
もちろんただ楽しいだけじゃなくて、文化が違う事での変わった体験や、スタッフ間でのストレスも沢山あった。
簡単な所では「〇〇ロール ソイペーパー」。アメリカ人は、あの黒々とした”海苔”が苦手な人が多い。だから、例えばカリフォルニアロールなどに代表される「裏巻き」は、その海苔を内側に巻き、見えない様にしたのが始まり。でもそれでも海苔が嫌な人が居るので、そんな人たちの為に、海苔の代わりとして「ソイペーパー(大豆で作った海苔の代替え品)」が使われる。
またある日、女性のお客様からの注文ではこんな物が有った、「Excuse me! Can I have a salmon skin-roll with soy paper without rice?(すみません!サーモンスキンロールのソイペーパーをシャリ無しで下さい!)」。
私は一瞬耳を疑った。「シャリなし??」w「シャリなしって事は、ネタを海苔で巻くだけって事?しかもソイペーパーで??」「でもそれじゃ寿司じゃないし.....。」私は別のシェフに聞いてみた。するとやはり、単純にシャリなしって事だそうだw
この理由は、アメリカでは当時「ノンカーボダイエット(炭水化物を抜くダイエット)」と言うダイエット方法が流行っていて、ありとあらゆる炭水化物を食べない人達が居た。そもそも和食や寿司が人気がある理由の一つに「ヘルシーだから」と言うのが多いのだが、それでも稀にこう言った注文を受けた。
またストレスの部分では、当たり前の様に勤勉に働く日本人の中で仕事をしている者(要は日本人)なら必ず最初に一度は乗り越えなければならない壁が有る。それは、”ルーズな時間”だ。
特にラテン系の人達に多いのだが、例えば日本人なら9時~仕事だった場合には、遅くても5分前には職場に付き、何としてでも時間までには仕事を始められる様にするだろう。所が彼等の場合は、平気で9時15分頃に来たりする。彼等にとってこの15分は誤差の範囲で、日本人とはまるで感覚が違う。。その事を当人に注意しても、そもそも”常識”が違うので相手は最初何の事を言われているのかも気付かない。「Please come tomorrow by 9AM (明日はちゃんと9時までに来てね!)」と言うと、「OK! OK!」と言って陽気に帰るのだが、翌日ももれなくいつも通りの9時15分ごろに出勤するw最初は来るのか来ないのかが気に成るのだが、そのうち慣れて「きっとそのうち来るだろう。。」てな感覚に成り、だんだん麻痺して行く。こうして”日本風”から”アメリカ風”にアジャストして行くのである。。
その他にもこんな事があった。これは私が一応の職人だから気に成る事なのかもしれないが、アメリカでは皆も知っての通り”チップ”と言う文化が有る。
飲食店でのチップの行き先は、店のマネージャー以外の従業員で分けあう事になっているのだが、その按分方法と言うのは実際その店によって異なる。私がいたKURA寿司では、やはり回転寿司のメインワーカーであるスシシェフが全体量の50%を分けあい、次にサーバー(ホール接客係)が40%を分けあう。そして最後にキッチンに居るウォッシャー兼バッサーが残りの10%を分けあうと言った具合だった。
そこで何がストレスだったかと言うと、そのチップを数えて分ける役目になっていた在米韓国人のChief Chefが、まだ営業中にもかかわらず、しかも店内にはお客様が残っている状況の中で、事もあろうに”まな板”の上におもむろにマネーを広げて数え始めるのである。。
日本人の自分としては、「仕事をなんだと思ってんの?!」と言いたくなるし、”職人”としても、お客様の口に入る生ネタを調理するある意味”神聖”なまな板の上に、衛生的にも非常に汚いマネー達を直接乗せて数えると言う行為がとても許せなかった(もちろんこの事はマネージャーを通してアドバイスをしたが)。。
これも含めて、やはり文化の違う国の中では基本的に”新しい常識”を自分の中に創って行く必要があるのだと思った。。
そんなこんなが有りながらも、私は最高に充実したアメリカ生活を送っていた。毎日が楽しすぎて、いっその事このままこの店に残り、LAに永住してもいい!そんな風に考えたりもした。。だがしかし、そもそもの任務は、アメリカにがってん寿司を作る為の市場調査と、お世話に成っているKENさんの会社がそのカウンターパートに相応しいかを見極めることだった。だから定期的に大島代表と電話でやり取りをしていたし、必要な時にはメールも送っていた。
アメリカに来て1ヶ月以上がたったある日、いつもの様に大島代表と電話で話をしていると、「ところで実際KENさんの会社はどうなの?」とストレートに訊いてきた。私は少し躊躇したが、「アメリカ(LA)にはこれから積極的に出店した方が良いと思います。ですがKENさんの会社とは組むのが難しいかと思います。」と伝えた。。アメリカで生活して1ヶ月、実はその時にはもう自分の心の中では答えは出ていて、その思いを率直に代表にぶつけたのだった。。
それはある意味では、もう既にあのLAXで初めて挨拶を交わした時に答えは出ていたのかも知れない。”日本風”と”アメリカ風”。そもそも文化の違う国の、文化の違う会社どうしが一緒に成る為には、どちらか一方がお金を出し(資本家に成り)、どちらか一方が運営をすると言う完全に割り切った関係で無いと上手くは行かないのだと思う。この場合だと、RDCがお金を出し、KENさんの会社に運営をほぼ100%任せるのが一番自然な流れだったのだと思う。でもそれでは、本当の「がってん寿司」には成らない。だから今回の場合は、「お互いが協力し合って良い回転寿司(がってん寿司を創る)の会社を創りましょう!」と言うノリで始まってしまった為に、その部分はどうやっても譲歩しきれないと思った。なぜなら実際にアメリカでのレストラン運営のノウハウはKENさんが持っていて我々は素人。でも我々は最低でも51%以上の株を持ち(要はRDCの子会社として)、我々日本からある程度のメンバーが乗りこんで行って、あくまでも「がってん寿司」を創るのが目的。。でもそれなら共同出資の会社を創るのではなく、始めから100%RDC出資の子会社を設立して、ある程度ノウハウをつかむまではコンサルタントを雇ってアドバイスをもらう形にした方がよっぽども良い。逆にそうでなければ、「がってん寿司」には絶対に成らないと思ったのだ。。
とても重大な提案だった。でも私の任務は実際に現場で働き、コミュニケーションをとり、肌で感じた事を出来るだけ率直に伝える事だと思っていたので、それを貫いた。そしてその上で、最終ジャッジは代表が降す!
「そうか.....」
「じゃあとりあえず一旦この話は保留にしましょう。」
一瞬考えた後、それでも代表の決断は早かった。
この瞬間に、がってん寿司のアメリカ進出は一旦保留に成ったのだが、代表はこう続けた。「でも折角そっちに行ったんだから、あのTEPPANをこっちでやらない?!僕からKENさんに上手く話をしておくから、残りの期間で、あのYAMATOのTEPPANを覚えて来てよ!それからそっちにAマネージャー(RDCの秘蔵っ子、早握りTVチャンピオン)を送るから、一緒に覚えて来て!」私は一瞬”ハッ”とした。渡米初日、代表達と一緒に食事をしたYAMATOでの会話を思い出した。あまりの感動に思わず軽口を叩いたあの時の事を、実は代表も考えていてくれたのだ。。「日本でJAPANESE RESTAURANTをやる......」当初の予定とは大きく変わってしまったが、これも運命。私はそこからのスケジュールを急遽変更した。。
【TEPPANトレーニング】
3日後、LAXまでAmgrを迎えに行き、この日から合流した。
既に1ヶ月以上の滞在の中で 、毎週行われていたYAMATOコーポレーションの店長ミーティングに参加させて頂いていた事で、全ての幹部スタッフとも仲良く成っていた私は、在米日本人店長のYOSHIさんに事情を説明し、彼が店長をやっていた「YAMATO アゴーラヒルズ店」で2人ともお世話に成る事となった。
元々イタリアンのコックでレストランの店長経験もある私は、扱う食材は違えど、事”調理”と言う部分に於いてはそれほど問題無いと思っていたが、逆に一番の問題は、あの高度なパフォーマンス部分に成ると確信していた。あれはいくら教わったとはいえ、ちょっとやそっとじゃ完璧には成らないと。。
先ず私はYOSHIさんに頼みこみ、TEPPAN SHEFのメキシコ人に手ほどきを受ける事にした。何でも訊いた所によるとこのSHEFは、TEPPAN SHEF歴8年だそうだ。と言う事はLAに来てから最低でもそれ以上に成ると言う事。それまでの私が知っているメキシカンとは違い、非常に英語も上手く、しかもお昼休憩中だと言うのに全く嫌がらずに私とAmgrに対して事細かにパフォーマンスを教えてくれた。そして私はそれをビデオに収めた。。一通りのパフォーマンスの”やり方”を覚えた後は、もう自分達でそれを数稽古するしかない。次に我々は、パフォーマンスに使うターナーとミートフォークを仕入れた。一応1~2週間は店舗に入り、TEPPANレストランのオペレーションやお客様の様子を観察したが、我々がSHEFに代わってお客様の所で実践練習できる訳が無いので、適当な時間をもって退店し、後は自分達でパフォーマンスの自主練習をする事にした。最初の内はアパートの部屋で練習をしていたのだが、部屋がたまたま2階にあった為、未熟でターナーやフォークを落とす回数が半端じゃ無いので、さすがに下の階の住人に迷惑だと思い、練習場所にはアパートから一番近かったサンタモニカビーチを選んだ(これをサンタモニカキャンプと呼んだw)。ここならいくら落としても大丈夫だし、なにせ広いし、しかも気持ちが良い!我々は上半身裸の短パン姿でターナーとフォークを持ち、実際に使う事に成るセラミックで出来たご飯茶碗を用意して、日が暮れるまで何度も何度も繰り返しパフォーマンス練習をした。サンタモニカビーチと言えば、ビーチ沿いに歩道も綺麗に整備されていて、ウォーキングやサイクリング、また簡単な体を動かす為の遊具みたいなものも設置されている為意外と人通りが多い。だから我々のTEPPANパフォーマンスの練習を見て、「Oh!TEPPAN SHEF!!」と声を掛けてくる人も居たり、結構喜ばれた。恐らくそこに空き缶の一つでも置いておけば、チップを入れてくれる人もいただろう。アメリカとはそういう所だ。実際にサンタモニカ・ピア(小さな遊園地のある桟橋)で、指人形をラジカセの音楽に合わせながら左右に揺らして立っているだけの黒人がチップを稼ごうとしていたりする(←これにはさすがに「世の中そんなに甘く無いぞ!」と教えてあげたかったがww)。実に楽しいサンタモニカキャンプだった。。
こうやって、私のアメリカ生活の後半は、主にTEPPANトレーニングと、BENIHANAなどを含むTEPPANレストランの視察、そして様々な業態のレストラン視察を繰り返しながら、とにかく毎日色々な”旨い物”をたらふく食べながら帰国のその時を待った。。(単純に会社の経費で海外で生活し、毎日旨い物を沢山食べられるなんてこれ以上ない贅沢な時間だが、こう言った、普通ではありえない、他の者とは違う体験、ある意味”ムダ”の様な体験こそが、普通とは違う感覚を産むのだとこの時強く思った。。そして私がアメリカ生活の約3ヶ月足らずで4キロ太った事は、実はあまり知られていない.........(笑))
あっと言う間に過ぎて行った楽しすぎるアメリカ生活は幕を閉じ、日本へ帰国。
LAにがってん寿司を創ると言う当初の目標は一旦保留に成ったが、新たにまた、「日本にJAPANESE RESTAURANTを創る!」と言うプロジェクトが発足。
社内に「新業態開発グループ」と言う新らしい部署が出来、私とAmgrはそこに配属された。
そしてそこで、”アメリカから逆輸入の和食レストラン”を創る事になった。
その店の名は「KATANA OF JAPAN」!
RDC史上初めての、英語の店舗名を持った店。
日本中を探しても沖縄位にしかないこのJAPANESE RESTAURANTを、ゼロベースから作り上げる為の道のりが始まった。。
最終章に続く..........
<次回予告>
いよいよ最終章!
KATANA OF JAPANのオープンから、RDC初めてのM&A物件「株式会社 吉仙」への出向、転籍。
そして独立をするまでの怒涛の道のり!



